幻想ノ櫻

 



【陸話】


ざわざわと人の気配が蠢く。
校舎が反響させるのか遠くの声も良く聞こえる。
討論、喧嘩、口さがない噂話に愚痴話。
一人二人の声なら言葉として認識出来るのだが
こう何百人もの声が乱れ飛ぶと最早一つの大きな騒音だ。

嗚呼、ここはあの日の山の様だ。
風の暴れる日。戦慄く木々。
悲鳴の様な音の渦――百千鳥(ももちどり)の飛翔


いつだったのか、何故だったのか。
遠い日、私はそんな場所で泣いた。
立って居られず、膝まで伸びた雑草に埋もれる様に泣いた。

今の研究室における雑音は私の封じられていた記憶を易々と呼び覚ました。
今の今まで頭にも掠らなかった光景が目の前に鮮明に蘇り、自分の学んできた事項を体感する。

忘れている様に思える記憶は脳内から消えた訳では無い。
与えられし情報は睡眠によって整理され、分類分けされ残される。

尤もその蓄積した記憶は決して起こった事象を正しく残しているとは云いがたい。

似たような記憶なら齟齬が在ろうが無かろうが上書きされる事が在る。
だから覚え違いだの混合だのと云う現象が起きる。

厄介なのは想像した事象や人聞きの話しすら記銘してしまうという事。
時には従来在った過去でさえ上書きされてしまう事が在る。

例えば似た風景の町並みは混ざり、ありえない所にありえない店舗を増やし
それを従来の姿と上書きする。
再びその街を訪れて齟齬を書き直さない限りはそのままそのありえない景色は
その人にはとっては何の違和感も無く真実の記憶≠ニして存在し続ける様に
比較的簡単に記憶の書き換えは起きるのだ。

それに加え、人はまれに幻視をする場合が在る。
心の病の場合を含め、精神的に不安定な時に同じ作業を繰り返したり
変化のない道を延々と歩いたりした場合、在る筈の無いモノを見たり、声を聞いたりする。

驚き慌てる当人の傍で見ている人間がいくら何も見えなかったとして
当人の中でソレが見えているのであれば少なくとも当人の世界の中ではそれが真実なのであろう。
脳はその映像や音声を起こりえた事実≠ニして記録し、蓄積する。

そう云った事象を含めて考えるとどんな記憶も現実的に在った事とは言い切れない。
裏付けする事象が無い限り従来積み重ねていた記憶である保証なんて何も無いのだ。
人の存在だとて同じ事。目の前の人がどうして存在していると証明しよう。
触れた感触か?その感触の存在はどう証明する?音声か?それも同じ事だろう。

それを解明しようとした結果が存在論なのだろうが
そんな大層なものを学ばなくとも大体の人は自分とその他の人間、モノ、事象が存在していると信じているのだが、いや、信じてる訳では無いのかも知れない、この場合疑わない、が正しい。
大体の人間は主観、その狭い視野の中で見て生きている限りはそれで何も問題は無いのだから。

触れられた感触があるからこの人は居るのだろう。この目が写すからソレは居るのだろう。
この耳が音声を受信するからそれは音を発しているのだろう。

肌で、耳で、目で、受け取った刺激をあるがまま、自分の感性で受け取って
在り≠ニするから在るのだが、それは酷く穴だらけな足場だと私は考えてしまう。

疑い始めた瞬間に見える、
人の存在は非常に危うい。

疑って初めて見える、
生きている限り人に付きまとう不安≠フ正体。

疑わずして感じるその不安への不安。それ故に人は不安定なのだろうか。

噂を信じて右往左往してみたり、自分と言うモノがまるで自分の生まれ持ったものだと錯覚してみたり
安易な所に居る為に自分に納得させる言い訳を考えて生きている。それは人類全体の処世術。
普通≠定義する事が愚か事とは知っているが統計上それが世間の言う普通≠ネのだが―――

彼はそれでもずっと問いかけてきたのだ。
身内も無く、過去も思い出せず、自己と云うモノが拡散していく中で――


『僕は僕を制御すべく、この道に進んでいるのです。僕は僕を克服したい。』


そう云って彼は真っ直ぐ私を見た。強い子だ。普通はそんな結論に到れない。
彼の言葉を咀嚼する限り、やはり解離性障害なのだと思う。そう伝えると彼は結論などどうでも良いと言った。
訳の分からない不安を言葉の檻に閉じ込めた気になって安心する気など毛頭無いらしい。


――強い意志の子だな。



私は目の前に置かれた資料の本を開きながら通り過ぎた時間に想いを巡らせた。


「僕の記憶は――どうやら遅れて到達する様なのです」
短期記憶障害、記憶出来ない≠ナはなく遅れて記憶する≠ネら記銘障害でも想起障害でも無い訳で。
――いや、軽度であれば相乗して記憶が遅れる場合も――無いか?

「今までで何か大きな事故にあったとか、頭に酷い衝撃を受けたとか無かったか?」
「あったかも――知れません。分からないんです。」
「判らない――」
「僕、八歳位までの記憶が無いんです。もっとも終戦のゴタゴタで分からなく成っただけかも知れませんが。」

「――辛い事なら済まないが、ご両親は?」
「僕は親を知りません。最近まで施設に居ました」

胸がざわついた。心臓の音が大きく
まるで頭中で鳴り響いている様に感じた。
この奇妙な符号。心拍数が酷く上がる。

私にも丸一年程、どうしても思い出せない年がある。
今から十二年程前、十六の時、何が在ったのかどうしても思い出せない時があった。
――只の偶然だろう。何でも自分と交差させて考える事は愚かだ。

そう自分に言い聞かせ、笑う半面酷く耳鳴りがしていた。

「一応、我が帝国大学は無学のまま入学できる程甘くないが?」
「施設には家庭教師がおりました。」
「君の居た施設は酷く恵まれた待遇をしてくれたんだね。このご時世だから尚更――」
「――いえ、僕にだけ付いていたのです。他の皆には――無かった。
名前は明かして頂けませんでしたがある方から出資して頂いていたらしいです。」

お陰で白い目で見られてましたが僕は厚顔なので
特に気にすることなく甘んじていました、有難かったですと彼は笑った。

そう云って彼は目の前の座卓に置かれた熱い茶を飲んだ。
私は騒ぐ胸を押さえる様に手を当てた。

「何処か具合でもお悪いですか?」
「――何も無い。それより君の話をもう少し詳しく聞いておかないと
何かあった時、対応出来ないと思うから――」

知ってたとして何を対応するつもりなのか。
気休めの粉薬でも常備させるつもりなのだろうか、私は。
本人がこうして全力で立ち向かう気で在る以上、傍の人間は黙って見ているしか無いじゃないか――

本当は言い訳なのだ。私は何処かで確信している。
彼の行く先に必ず自分自身の求める答えが在ると。

だとしたらこの対応云々と云うのは只の欺瞞でしか無いじゃないか。
そんな浅ましい想いが語尾を濁した事を、彼は気が付いただろうか。

彼を見る。彼は私を真っ直ぐ見ていた。
胸が痛む。耐え切れず言葉を紡ぐ。まるで懺悔だ。

「君の問題は何故か私の問題でも在る様な気がしているんだ。
だから知りたいのかも知れない。」

さぞかし私は奇妙な事を言ったのだろう。
彼は眉間に皺を寄せ、自らの不審感が重く圧し掛かったのか
コトリと首を傾げた。

朝日が当たり、彼の髪は亜麻色に染まる。
こうして見ると彼は本当に少女の様に見える。

唇の淡く濡れた薄紅色が白い肌に浮いてとても綺麗だ。
悩ましい顔さえ絵になってしまう。

彼が研究室に入った時、騒いだのは女だけでは無かった。
勿論、衆道の気のある人間は居なかったが無理の無い話だ。
(多分、いや、一人二人怪しい者は居たが)

じっと押し黙って魅入ってる私が不快だったのか
彼は大きな目を更に大きく膨らませ
「教授はまだ寝ぼけてらっしゃるのです?」と最大限に苛立ちを表す顔をした。
「いや、私もその時期記憶が飛んでいてね。可能性の話をしただけだ。」

そうわざと素っ気無く云って手元の煙草に火をつけた。
相変わらず耳鳴りは鳴りっ放しだ。
同じ音ばかり鳴らないでいい加減旋律でも奏でて欲しいものだ。

「―――激しい感情の動向があるとどうやら僕は僕で無くなる様です。
まぁ、、どう在っても僕なのですが。怒ったり、悲しかったり、あー後は――
少し、記憶が蘇らない場合もあります。」
「川に入った事は――?」
「思い出せません」

「洞口君と言い争った事は?」
「思い出しました。謝らないといけませんね」
「いや、いい薬になったんじゃないかな?」
「いえ、彼女が執拗かったにしろ、あんなに騒ぎ立てる事も無かった。」
「そうか。」

「入試の時に図書館で大男を――」
「あれも思い出してますよ。あれは謝りません。」

「君がそんな怪力には見えないんだが――」
「尋常でない力が出る時が在るんですよ。」
「あの男に何されたか聞いたら不味いかな?」

「迫られただけです。僕は本を読みたかったのに執拗いの何のって。
僕が女でも彼が酷く僕好みの容姿の女性でも配慮の無い人はお断りですよ。
もう一発殴ってやれば良かったと思います。」
「そうか、程々にな。」


後は他愛も無い話をしていた。
彼は最後まで樋口の云ってた事を思い出そうとして居たが得た物は無かった。
「何か心が乱れたのか?」と彼を揶揄(からか)うと
「お酒という物を初めて呑んだので――」と肩を竦めて笑っていた。

そうか。彼は施設育ちだった。
家庭教師を付けられた事こそ異例だったのだろうが
まさか異例ついでに酒も振舞われてる何て事が在る筈が無い。

「どうだった?初めての酒の味は?」そう笑うと
「良いですね。酷く楽しい気分になりました。実を云うと今、頭が痛いです」
「あはは。そりゃ二日酔いだ。」
「またご馳走して下さいね?」
「嫌なこった。」

私が鼻で笑うと彼も笑った。

そう今、目の前で他の研究員と笑う様にあの時、彼は笑っていた。


あの一件で彼は浮いてしまうと思いきや、なかなか、どうして。
車で学校に着き、一緒に研究室に入ったのだが
彼は眩しい笑顔でもってすぐさま場に溶け込んでしまった。

洞口君が皆の前で野々村に非礼を謝った。
彼も彼女に謝った――のだが、

「――でも綺麗と思うものは触りたいんだもん」
云わないと良いのにまた蒸し返す様な事を。

「――どおりで僕は君に触りたいと思えない訳だ。はは、なるほど。」
野々村もやらねば良い報復をする。

「最低!」
「君がね。」
「仲良くして差し上げようと思ったのに!」
「そんな地獄はごめんだ。壁と話してる方がまだ面白いよ。」

やれやれ、どうにも彼らは折が合わない様だ。
真っ赤な顔して怒る洞瀬君に涼しい顔で毒づく野々村。
洞口君が少し可哀想になった。

「君達は何をする為にここに居るのかね?」座ったままそう声を掛けると
彼女は私の顔を見て何かを思い出したらしく
早足でこっちに向かってきた。

「忘れてました!私、六華教授にご相談したい事がありました。」
「え?」
「いえ、正確には私の友人なんですが、会って話を聞いてやって貰えませんか?良い被験者が見つかるかも知れませんくてよ?」




【続く】



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