幻想ノ櫻

 



【伍話】


――私を呼ぶ声がする。



モヤモヤと漂う生暖かい空気がまるで羊水の様に私を包んでいた。
嗚呼、ここは真っ暗だ。奈落の底やも知れぬ。
とうとう来たのだここに。
ずっと恋焦がれていた、様な気がした。



黒が、黒が、黒が、私を飲み込む。



『六華様――六華さ――是終様――』


私の名を呼ぶのは誰だ。
天駆ける渡り鳥のソレの如くか細い声――優しく、悲しいその声は親父がよこした新しい使用人であろうか。
聞き覚えの在る。何処か、心の隅にずっと佇んでいた様な懐かしい声。



――君は 誰だ。



相変わらず真っ暗な世界。水音が聞こえ、体がユラリと揺らされる。
何かが背後を通った。怖くは無い。気にはなる。


『――中で――せて下さい。――殺さな――』


途切れ途切れの声。所在はくるくると揺らぎに合わせて動く。
不安になる。胸を押さえ、耳を塞ぐ。


『――イデ――ナ―デ――デ――』


くるくると回る声の所在に遠くなる意識。
大きくなる鳥の平和な鳴き声。緊張と緩和。

黒と白。脳内に染み込む耳鳴り。甲高い叫び声。音の洪水。
刹那肥大してきた光は私を迎え、抱え、闇が消え――

私は、いつもの寝床にて目を覚ました。

鳥の囀りが聞こえた。
汗で浴衣が張り付いて気持ちが悪い。

たまに見る夢なのだが今日のは殊更生々しかった。
布団から立ち上がってみても未だ残る浮遊感から逃れ得ずに
ゆらりと流される様に縁側に向かい庭を見た。

庭に植えられた寒椿は使用人が気を利かせて植えた物らしい。
石が運ばれ、玉砂利が引かれ、簡素な土の広場だった所が
じわりじわりと立派な日本庭園になっていった。

嫌いじゃないから拒否はしないが
しようとも思っていない事を先に人にやられてしまうのは
妙な閉塞感を感じたので反抗するかの様に整えられた庭園に無花果を沢山植えた。


我ながら景観が台無しだ。


しかしながら美しい庭も良いが戦争がこれで終わりという保証も無い。
畑を耕す事が出来ないのならせめて何か食料を植えておきたい気がした。

土壌が良かった所為か無花果はすくすく育ち、多くの実をつけた。
樋口君と二人では持て余し、近所の人達にも配った程だ。

彼はこの土地の前の持ち主はこの庭で揃って機関銃でやられたと聞いた。
櫻の気の下には――死体だが、無花果の木の下の土壌には命が染み込んでいるらしい。

気味が悪いとは思わない。我々は命を頂いて生きている。
ありがたいと思って食そうと思う。実際食べる度にその話を思い出し感謝する。
余り豊作だと「そんなに頑張って奉仕しなくとも良いのですよ」そう幹に話しかけもする。

近所の悪餓鬼が塀を越えて盗みに来た。
くれと云えば幾らでもやるから玄関から来いと云ったが研究の為、留守がちな我が家だ。入れてやれないかも知れない。その際には勝手に門を潜り、好きに食べたまえと何とも有耶無耶な決まりを教えたので子供達は妙な顔をしていた。


「好きなだけ食べて良い変わりに偶には元気な顔を見せろ、と云う事だ」
そう笑うと彼らは青っ洟を手首で拭きながらへへへ、と笑った。
悪たれながら愛らしい顔だ。引き換えにする価値は存分にあろう。
約束通り、彼らはたまに来ては無花果を食べながら他愛も無い話をしに来る。

まだ実は青い。外はまだ寒い。
温まるものでも作ろうと土間に向かうと何やら音がした。
包丁の音だ。



―――野々村か?


そっと縁側に出て台所に向かう。
床板が軋み、振るえて私の所在を向こうに伝えた。

その所為でこちらの様子を伺っていたのか束の間、包丁の音が控えめに鳴っていた。

「上手いものだな。丁稚修行にでも出ていたか?」
背後からそう声を掛けると包丁を止めもせずに
「へぇ、旦那。もう少しで召し上がって頂けますんでお待ちを。」
野々村はそう振り向きもせずに笑った。

貸し与えた浴衣の襟が花魁のそれの様にだらしなく開き、白い項が見えた。
そもそも色が白く華奢な体系な彼だ。妙な錯覚を覚えそうで不味い。
何だか疚しい気がして目を反らした。

「服はまだ半濡れか。私のを着ていくといい」
「恩に着ますよ」
「そんなモン着なくて良いから真っ当に服を着ろ」
「どうせ着替えますから見苦しいのはもう少し勘弁して下さい」

ずっと背後から見ているのも変なので私は居間へ行き、
暖房に鉄瓶をかけた。

しばらくするとしゅんしゅんと沸騰を伝える音が鳴る。この音が好きだ。
清逸で――心の隅まで静かになる、そんな気がして目を瞑り静寂を楽しむ。

しゅんしゅんしゅん、とんとんとん。

耳に入る小鳥の囀り、合いの手を入れる包丁の叩き音。
再び眠りの淵に沈みそうに成るのを感じ、着替えをするべく部屋に戻った。

衣擦れ音をさせて帯を床に落とす。
箪笥からシャツを出しながら昨日を反芻し、結局彼から何も聞けなかった事を思い出す。
何一つ割り切れないで余りばかり出るから気持ち悪くてしょうがない。



隙あらば――



「教授、朝食の用意が出来ました。」
「あ?――うん、判った。」
声が導くままに居間に戻る。

「勝手な真似をご容赦下さい。せめてものご恩返しで。ろくな物作れませんが」
「ん?どうした?偉く殊勝だね。昨日が嘘の様だ。」
「どうも気分が定まらないので――失礼をお詫びします。」
「いや――」

まるで船での長旅の後、ようやく地面に降り立った様な――
彼との会話はゆらゆらと地盤が揺らいで均衡を見失う。酔いそうだ。

次に出すべく言葉が見つからず黙り込みご飯をかっ込んだ。
彼は何か考えた挙句そうだ、ときっちり正座しているその膝を叩いた。
その時初めて彼がそんな改まった姿勢をしていた事に気が付き、驚いた。

「昨日樋口さんが何か――」
「うん?」
「教授にご意見を伺いにいらしてたそうなんですが――」
「何故昨日云わなかったんだ」
「――云い、そびれましたね。呑んで、ました、、し。」
「――そうか。」

急にしどろもどろになった彼の様子の変異が気にはなったが
何分彼はわからない事が多すぎて突っ込んで聞く気になれずに
私は記憶を探った。

前にあった時、何か云いたげではあった――気がするのだが。
朧げな記憶は何も形を成さず、只溜息をつくばかり。
諦めて野々村を見ると彼は今朝来たばかりの新聞を読んでいた。



「えー、何だったかなぁ――骨が何とか、、、あと呪いが何とか、、――新聞に何か載ってるかも知れません。」
「うん?」

そう云って彼は新聞の見出しを読み上げ始めた。

「映画制作所社長、刺殺体発見。所属事務所女優が失踪。
民家が全焼。隣家との宗教を挟む争いか?―――んー。」
「思い出せないのかね?」
「――申し訳ないです。」
「どれ――」

そう云って覗いては見たが対して役に立ちそうも無く
只、炭鉱で大きな事故があったらしい事が私の胸を締め付けた。

「一人でも多くの人が助かれば良いな。」
「はぁ。」

彼は気も漫ろにそう云ったまま
しばらく頭の左上の方をじっと見たまま考え込んでいたが
何も収穫が無かったらしく溜息をついてこちらの世界へ戻ってきた。

「すいません。僕の記憶はあてにしないで下さい。」


――チャンスだ。


「そう云えば君は風呂上りの時も私の事をまるで知らない様な顔をしていた。」
「――失礼な事を――すいませんでした。」
「謝罪が欲しい訳じゃない。気にはしてない。だが――そろそろ少し位
ネタ晴らしをしてくれても良いと思わないか?君には不自然な程一貫性が無い。」

彼は酷く沈痛な顔をした。酷く傷つけたのかも知れない。
しかし何も判らないままで私は彼と接するのが辛かった。

人と向き合ってる気がしないのだ。
予測も立てられないから何処で彼の心を傷つけるか判らない。
酷く神経を使わされてしまうのだ。無駄が多い。

「あの――そうですよね。はい。知ってて頂く方が良いですよね。――」

中々出せない理由があるのだろう、彼は酷く狼狽している。
時間が必要なら――まだ大学に行くにも早い時間だ。
ゆっくり出すと良い。

そう意思表示する為に私はお茶を彼に勧め自分の分も入れ
煙草にそっと火をつけた。
相変わらず窓の外は明るく、鳥はしきりに囀っていた。

「今日は無事に入れれば良いが、下手すりゃ門前払いだ。」
学生運動の盛んな昨今、登校出来ずに帰る事など日常茶飯事だ。
あらゆる門が血気盛んな学生によって閉鎖されているのだ。
強行突破した所でいい結果になる気がしない。

私はそれをいい事にして仕事から逃げる。
要は不良教授だが、研究は何処ででも出来る。
精神医学の研究材料などそこら中に転がっているのだから。

悲しい哉、何処にでも転がっては居るのだ。
だが、人の心を解き明かそう何てどだい無理な問題だったのだ。
脳や精神は只の電気信号とも云い切れはしないし、
理論づくで作った枠内に大人しく嵌る性質では無い。

人の数だけ症例があり、薬があり、処置がある。
寸分違わない事例なんてお目にかかった事が無い。

要するに我々はもやもやとした霞の様な訳の判らないものに
名前を付け、理屈を捻くり回して属性と言う役に立たない枠を付け
分かった気になって喜んでいる大馬鹿者の集まりなのだ。

それでも人は分かった気になりたがる。
皆そうでも無いと不安なのだ。

精神も体も全て制御している、そう納得し得るまでのプロセスを求めるのだ。
錯覚する為の焦点″りだ。皆、何も制御など出来ていないのが普通なのだが
それを認めるには余りにも人間は脆弱すぎるだけの話なのだ。

そう考え始めてから私は研究に没頭出来なくなった。
出来ぬ、と云う仮定が余りにも生々しい現実味を帯びていた。
追い求める事に疲れているだけなのかも知れない。

「教授――僕は貴方に治療を求めていない事を前提に話をします。」
「――ん?」
「僕は僕を制御すべく、この道に進んでいるのです。僕は僕を克服したい。」

彼は真っ直ぐ私を見た。ソレはかつての自分の姿だった。
痛々しい程彼の気持ちが分かった。だから黙って頷いた。

「僕の記憶は――どうやら遅れて到達する様なのです。」
「――え?」



【続く】

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