幻想ノ櫻

 



【壱話】
「六華教授…」

そう言いながら私の盃に酒を注ぐ青年の顔を
じっと見ていた。

「これから、宜しくお願いします。僕は貴方の手を
酷く煩わせる酷い弟子になるかも知れないので…」

物覚えがね、悪いんです。否、遅いのかな。
彼は笑うと軽く頭を下げた。

「君がそう言うとは意外だな」

私はそう笑うと彼は首を傾げ言葉の解釈を
黙したままで要求した。

景色が止まる。脳が何かを早足で探る。
彼の周りに見えてる背景が砂嵐の様に曖昧になり
思考が凍りついた。

「――教授?」
「――あぁ、すまない。少し考え事を。君は試験のあの日、
とても目立っていたと試験官をしていた子が云っていた」
「――目立つ?」
「そう。特異に感じたとでも云うのかな。――
5分で退席したそうだね。後は図書館で暇を潰していたと」
「悪いことは出来ないものですね。目ざとい人も居たもんだ。」

彼の笑顔はとても人懐っこい。
何も知らない無垢な少年の様だ。

白く抜ける様な肌も、大きく切れ長の瞳も
光の加減で緑掛かった栗色になるのも

まるで彼は上手く出来た嘘の様な隙の無い容姿をしていた。
嫌でも目立つ。彼にその自覚は無い。

一体、この感情を感じさせない容姿の彼に
どんな感情の流れがあったのか
彼は入学試験当日、さっさと試験を終わらして退席した後
図書館で本を貪り読み――

棚の連立した狭い空間の中で
男を殴り倒して去っていった。
試験の結果は――首席。

「ちょっと良いかな?」

彼のワイシャツの腕をめくり上げると
その二の腕を見る。

彼の腕は男にしては細い。
しかしながら筋肉はそれなりに付いている。

でも殴られたと云う男の体は彼よりも大きい。
彼の身長はそんなに大きくは無い。
精々四尺三寸(165cm程度)という所だろうか。

彼の一撃を見事に受けた彼の体は彼は六尺もあろう
恰幅の良い大男なんだが。倒せるものだろうか。

「――僕は衆道には興味無いですよ?」

私が彼の腕も繁々と眺めていたので誤解されたのだろう。
彼は怪訝な顔でそう云った。

「いや、この細腕で――図書館の出来事の真相が気になってね」
「ああ、その事で。書物に対する冒涜が赦せなかっただけですよ。
図書室は静かに書を愛でる所です。そうでしょう?」
「理由はともかくどうやってあの巨体を――。」

そう問うと彼は表情をふっと凍らせ――
とても――華やかに笑った。

口角がぐっと上がった、とでも言うのだろうか。
しかしながら瞳には暗い影が差し――
性格には華やかな顔で笑う様に悲しい顔をした。

それはとても奇妙な表情だった。

初めて見る筈の映像。こんな表情をする奴は
今だかつて見た事が無い筈だった。
でも酷く懐かしい映像に感じた。

何処で見たのだろう。
彼と逢った事があるのだろうか。

初めての筈だ。
そう初めて彼を見たのは
大学入学式――舞い散る桜を背に背負い門をくぐった彼。
その異形とすら云える姿に思わず目を奪われた。

無表情の彼はまるで幽玄に漂う魔の様に
頼りなく、素早く、風に流される様に
真っ直ぐ中へと歩を進めた。

あんな衝撃はきっと未踏だろう。
きっと今までに彼と逢っていたなら忘れない。
忘れ得る筈が無い。

舞い降りた聖なる少女とも見紛うその姿に
私は彼が横をすり抜けて行ってしまうまで動けなかったのだから。

愛だ恋だ。そんなでは無い。まるでラジオのノイズ――。
背筋が凍る悪寒。冷や汗が出た。

頬を櫻の華が撫ぜる。思わず身をビクリと振るわせた。
まるで天女の如き禍々しき異形のナニカが私を愛撫したかの様な
訳の分からない恐怖に怯えた。

今こうして目の前に対峙するとそうでも無い。
只、普通の愛想の良い青年が目の前に居るだけ。

疲れて居たのだろうな。自覚はあった。
連日の考慮すべき睡眠時間を無視した資料漁りが
そんな妙な空間を作り出したに違いない。

「しかしこの腕で――」
思考に潜り潜り話す私に不審な顔をした彼に
まるで言い訳でもする様に問おうとしたが
彼の取り巻きだろうか、三人固まって座る少女達の
華やかな黄色い声に遮られてしまった。

「野々村さぁん!ここの席空いてましてよ」
「これから共に身を削って行く者同士親交を深めません事?」

宮脇苑絵と洞口草子だ。
二人ともこの目の前の野々村の一歳年上で
宮脇は研究の傍ら明るい女性の未来――太陽会――≠ニ言う
団体の団員で、要は筋金入りのフェミニスト(女権拡張論者)だ。

男勝りで弁が立つ。優しさよりも智≠ェ勝つ所為か
硬く始終トゲのある話し方をする彼女に尊敬と畏怖の念を込めて
皆は宮脇女史と呼んでいる。

端正な顔には化粧っ気は無く。
私としては(飾ればさぞかし綺麗な華になるだろうに惜しい)と思うのだが
そんな事を言っては彼女の神経を逆撫ぜてしまうだろうな。
触らぬ女史に祟り無し。今までの経験も私にそう示唆しているからしょうがない。

洞口は姦しい。頭の回転が良い所為かとにかく姦しい。
銀縁めがねを引き上げながら羅列する様は
まるで歩く新聞紙≠セ。ネタの質が非常に悪いが…
非常に役に立つ。研究の僕たる私は俗世の進行事象を
いつも彼女から得るのだ。

そんな二人に挟まれて居心地の悪そうに座ってるのは
野々村と同期、つまり今年からの研究生で確か名は――

そうだ。久我――信子だ。

派手な二人に挟まれてるからどうにもこうにも影が薄い。
どんな人物なのかは今だ判らないが、ここに居るからには
家は大層な金持ちなのであろう。

戦争の傷口も今だ癒えぬこの日本で
こうして学徒たる自体、豊かである証拠なのだ。
一般の人間は生きる事に必死で学んでる暇など無い。

こうして自分が『教授』と言う肩書きを冠してる事に
酷く罪悪感が有る。この子達はどう思ってこの学び舎に通うのだろうか。

街中では皆が雑草を食んで命を繋ぐが如くの生活をしてる今、
最も尊き行為は田畑を耕し、国民の為に食物を作る事だと思う。


それでも私は――


あれからもう十年も経つのか――


【続く】
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