幻想ノ櫻

 



【弐話】


『朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ
時局ヲ収拾セムト欲シ慈ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク――』
日本敗戦(1945年8月14日)、玉音放送。




感情を押し殺した様な声が騒音に混じって聞こえた日。
日本国民は皆、崩れる様に床に伏した。


――敗北感、虚無感、後悔――


いや、そんな陳腐な言葉には言い表しきれない
複雑な感情が国民の皆の力を奪い、涙も出なかったと
母は云った。

只、どうして今まで自分が地面に立っていたのか
判らなくなる程に惚けたと。

私はと云えば南方で――


あの日は真に綺麗な夕日が異郷の丘を真っ赤に染めていた。
上官は私に遺言を言い渡し、胸元から小刀を出した。
夕日の所為か否か――小刀は紅い色をしていた。

私は上官に背を向けた。私ならば見られたくは無い。
――だが、小刀では死に切れなかったのだろう
上官の悲痛なうめき声と土を蹴って暴れる音が背後から聞こえた。


絶えられる筈も無い。
運命を共にしてきた人だ。


飢えているにも関わらず、僅かな食料を分けてくれた。
沢山身の上話もした。豪傑な人だった。
支えあった。尊敬していた。

振り返り上官の元に駆けつけた。
上官は腹を割き、狂った様に暴れていた。

「上官!上官!樋口さんッ!」

彼は喉からヒューヒューと声にならぬ声を上げた。
どうにか一人で逝こうと喉も切っていたのだ。

「申し訳ありません!いずれ自分もッ―!」

彼の頭を押さえつけ――
その頭に自らのサンパチ(三八式歩兵銃)を突きつけ


――引き金を、引いた。


ぱしゅ、と言う乾いた音が空気を裂き、彼の頭はまるで柘榴のように口を開け
脳髄を私に向かって豪快に吐き出し――。


その一瞬前、覚悟を決めたのか彼は眼を瞑り
口を何度かパクパクと動かした。

自らの撒いた種は自らで刈りたい。
そんな誇り高い人だった。
私は彼の苦しさを思うと耐えられず――




そんな彼の高潔な死≠穢した。




否、そもそも死ぬ事に高潔も低俗も無いのだろう。
仲間達は皆、ボロクズの様に横たわり、淡々と死んでいった。

死とは所詮生者のものなのだ。死んだ後の想いなど
生者側の只の感傷なのだ。下世話な想像で妄想なのだ。

涙が出るのは生きているこの私の目ではないか。
死者のソレでは無い。

これから皆の屍を踏みしめて生きていく俺は
その往生際の悪い感傷を払拭できず
積み重ね、背負って生きていくのだ。

それだけの筈だ。そう自分に云い聞かせた。
彼の骸を埋めた場所に最後の敬礼をしながら
只、泣いていた。馬鹿の様に。

それから引き揚げ船が来るまでの間の記憶は無い。
あの茜色の丘でずっと惚けていた様な気がする。
そもそも戦争に駆り出されるまでの記憶も怪しいのに
色々あったあの時が鮮明に残る筈は無い。

何故消えてしまうのか、記憶と云うものは。
本当に不要な情報以外に絶対に消えるべきでは無い事も在ろう。

戦友や仲間の事がどんどん淘汰されていく。
命も心も亡くした彼ら、せめて我が記憶に留めて置きたいではないか。

脳とは何故こうした事をするのか。
そんな怒りにも似た感情が私を
この研究室の所長たら占めている。

――父の威光の所為も在るんだろうが…。


「触るなッッ!」

突然の怒号。10人から成るこの研究室の全員が
その声の主を割り出すのに時間が掛かった。

意外すぎたのだ。

野々村修一、先程まで軽やかに笑っていた
いかにも優しげな新入り。

彼はそのガラス細工の様な柔らかな顔を
惜しげも無く歪ませて隣に居た洞口を睨み付けていた。

「何よぉ!ちょっとそのよく出来た顔の全容を見せてって…」
「お前は自分が触られたく無いモノを触られても意義を唱えないのだな!」
「そんなには怒らないわよ」
「例え女の貞潔たる場所でもそう云えるのか!俺が減るもんじゃ無いし、と
気さくに触っても平然としてられるのだな!」

場がどよめく。
洞口を庇う様に宮脇女史が彼女を背に庇う。

「綺麗な顔だと褒めただけじゃない!悪い事じゃないわ!」
「男が貞淑で古風な女だと褒める事を洗脳だ!男根主義だ!
女は属して当たり前と思うな!と怒る貴方じゃないのか!
貴方がその様なら女性の権利拡張など取るに足らない主張だな!
只の我侭だ!無能の思い上がりだ!」

「――なぁんですって!謝りなさい!褒めてやったのに!」
「貴方が受けて嬉しい事が全人類の嬉しい事なのか!思い上がりも甚だしい!」


珍しく押され気味の女史。
見かねた皆が何とか場を納めようと立ち上がる。
野々村は女史の胸倉を捕らえようとした。

「―――静まりなさい」

私が発した言葉はどうやら少しばかりの効果を発揮したようで
皆はざわめく心中を収め、野々村はくるりと踵を返し
この場を――新入生歓迎会の会場を後にした。


静まり返る会場。
口を開いたのは洞口だった。

「――何なのよッ!お高く留まってやんの!」
「馴れ馴れし過ぎたのよ、草子も悪いわ」
「でも――羨ましかったんだもん。綺麗なモノって
触りたくなるじゃない?愛情表現だもん。悪くはないわよ!」

「彼にとっては嫌な事だったの。」
「わっかんないわ。」
「後で謝りなさいよ。」
「――逢えばね。でも、アレは何だったんだろう。」
「何が?」

「彼の額、前髪に隠れてる部分に火傷の跡があったわ。
割と酷い感じの。」
「それを見られるのが嫌だったのかもよ?」
「――謝るわよぅ。ちゃんと。ちゃんと謝りますってば!
こっち見るな!馬鹿男ども!」

どうやら洞口は気が付いていない。
彼女は基本的に無神経なのだ。

皆が耳を欹てて聞いてる中で
何もあんな触れて欲しくないと予測の立て得る彼の話を
云わなくても良いと思うのだが――。

頭の回転は悪くは無いが人として何処かセンスが悪い。
あの子は上手く生きていけるのだろうか、と
宮脇がぼやいて居ていた事が在る。

鈍感な人間ほど、意外に長生きするもんだと私が笑うと
彼女も笑っていたな。


私は立ち上がり、窓から建物の外を見ると
野々村であろう小さな影がゆらりと歩いていくのが見えた。
どうもあの子は気になる。

外はまだ肌寒い。壁に掛けていた外套を着込み、
彼の忘れていった外套を手に彼の後を追った。

――他の生徒の事を失念してたな。私はどうも単純でいけない。

少し引き返して会場のドアから顔を出し。
「私は失礼するよ。君達も適当にして帰ると良い。楽しかった」
それだけ云ってドアを閉め駆けた。




【続く】

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