幻想ノ櫻

 



【参話】


彼に追いついたのは会場を後にしてどの位だったか。
少しばかりの夕焼けを残した藍色をしていた空が
すっかりと暮れていた。
畑を抜け、民家を抜け、繁華街の途中にある
人の往来の多い橋の架かった川に彼は居た。

河川敷で無く、橋の上で無く、川に居た。
三十三尺(約10m)程度の川幅の真ん中で
流れを分かつ様に僅かながらの水音を立てて居た。

初めは彼とは思わ無かった。
見知らぬ人の入水の現場にかち合ってしまったと思っていた。
縁が在ったのだから何処の誰かは判らぬが
知らぬ顔は出来まい。放っておけば夢見が悪い。

死にたい人間なら見て見ぬ振りしてやるのが義≠ゥも知れないが、
こんな目立つ所を死に場所にする者が悪い。咎められる可能性が高い。
だから本心から望んでの行為とは思い難い。

あの時だって、こうすれば良かったのだ。
生きて帰るのが名折れだの、陛下や国民に合わせる顔が無いだの――。

常識や理想なんて時代が変わればあたかも元からそうであった様に変わる。
所詮は誰かにとって都合の良い流れで流されているだけで
大した事などでは在り得ないのだ。
生きて居ればこそ、自分が捕われていた事を知る事が出来る。修正も出来る。

生きるべく説得をすべきであったのだ。
無様に生き延びた私こそ正解であったのだ。
元より、今の日本では皆が病んでいる。
もう失うものが無い程無くしている人間が大半だ。

失くすだけ失くせば後は得るだけだ。
リア王では無いが真実そうでは無いのか。
かの大戦で死にそびれたのだからこの際生きたらどうか。

自分の為に用意したのか、目の前の入水希望者に用意した言葉なのか
そんな判別の付かないまま声を掛けた。

「君。まだ水浴びには早い季節だと思わないか?」

目の前の影はゆらりとこっちを向き
腰まで浸かったままで

「禍々しいとは――思いませんか?」
そう云って水を両手で掬った。

往来する人の提灯で川面は煌々と橙色に光っていた。
丸い丸い光がチラチラと動く様は蛍の様だった。
その上を何事も無い様に通り過ぎる無数の小さき影――

白いそれは――

「櫻ですよ」

水の中の人は云った。
思わず見渡す。

「上流に木が在るのでしょう。これは散った桜の花なのです」

蛍の光が映し出した顔。
私はここで初めて目標の人を捕まえた事を知った。
あちらはまだ私に気が付いて居ないのか表情は硬く

「散った――花なのです――」
そう力無く呟き、水面を激しくかき混ぜた。それはもう暴力的に。

「散って逝くモノなら静かに記憶から去れば良いものを!
どうして残すのだッ!忌々しいッ!」
何度も何度も水面を叩くから彼の開襟服はすっかり濡れてしまっていた。

見かねて暴れる彼の腕を引っ張り上げた。
結局私も塗れる羽目になった。
矢張りまだ、川の水は雪解けのままで身を切る様に冷たかった。

恨み言はさておき彼に外套を掛け、家の場所を尋ねるが
虚空を見つめるばかりで何の反応も得られ無かった。
仕方無く大学まで彼を引っ張って行くと車に乗せ
自分の家に連れて帰った。

道中、彼は一言も発する事も無く只、ガタガタと震えていた。

「言ったこっちゃ無い」

嫌味の一つも言わせて貰って悪くは無いだろう。
彼の奇行のお陰で濡れるわ、時間は食うわ、慌てるわ
今の所得るものなど何も無かったのだから。

それでも返事は返って来なかった。
車は悪い道を蛇行し、見慣れた我が家に着いた。

早速彼を引き摺り下ろす様に車から下ろし、
風呂を炊き、投げ込む様に彼を風呂場に追い込んだ。

着替えは私のを貸せば良いだろう。
男の一人暮らしとしては綺麗な方だ。
洗濯もマメにしている。

――まぁ、偶に実家から回してくれている優秀な人材が
大半の家事をしてくれている所為では在るのだが。

ガタガタと風呂場の戸が開く音がした。
入れ替わりに入ろうとその場に向かうと
濡れた自身の服を着た彼がバツが悪そうに立っていた。

「着替えを置いておいただろう」
「そこまでして頂く云われは在りませんので」
「これから可愛い研究員になるのだから云われは在るんだ」
「研究…員。」

体に対して分相応な程、華奢で大きな手のひらで
彼は――洞口君曰く酷い火傷の後が在るらしい額から
大きな目に到るまでを覆い、何やら思考に落ちた様に固まった。

「取り合えず、あちらの間で着替えなさい。
濡れた服はこの盥に入れて。分かったね」
「――は、い。」

曖昧な返事、瞳孔を震わせた。
落ち着き無く動かす不審な態度。

気にはなったが自分も風邪を引きかねないので
そんな彼の脇をすり抜け、風呂に入った。

身を切る様に冷たい水に入った後だったので
体中の血管が暴発しそうな程広がって行くのを感じた。
痛いぐらいだ。

「あーーー」

思わず低い唸り声にも似た声を上げる。
気持ちが良いのだ。唸っても赦されるであろう。
そうを頭の中で勝手に開き直りながら
私は彼に思考を馳せた。


【続く】
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