幻想ノ櫻

 



【廿玖話】


「買い被り――過ぎですわ――」
彼女の声が力無く部屋に響いた。

私の見当違いの、理想主義の誤った解釈だったのだろうか。
それでも私は聞かずには居られない。例えそれが私自身の願望でしか無かったとしても――

「本当は、お母さんが今までの行為を悔いて、貴方を頼ってくれさえすれば
貴方がその罪を着るおつもりだったのでは無いのですか?遥さん。」

遥さんの肩が大きく揺れた。

「貴方は只、前の様な関係に戻りたかった。だからこの開いてしまった間を
何かで埋めたかった。一つの大業を複数で挟むとその人達の心は近くなるものだ。それが例え殺人と云う大罪でも構わなかった――うってつけの人間は沢山居たのだから。」

直視するには耐え難く、背を向けたその背に居た志津子さんから啜り泣く声が聞こえた。

「本当は、、貴方はもう一度お母さんに愛されたかった、違いますか?」

背後の啜り泣きに嗚咽が混じり、声が大きくなる。

「ずっと憎しみ切れなかったお母様にもう一度――」

私の言葉に何かが堰を切った様な彼女は振り返り、隠す事なくはらはらと
まるで花弁の様な雫を落とした。

煌々。煌々。

風が吹く、長く艶やかな髪が流れる様にそよぐ。


煌々。煌々。

彼女の背後に、まるで従えるている様にさえ見える櫻の木もそよぐ。


煌々。煌々。

散り行く二つ、三つ――沢山、沢山。


――想いが――飛沫する――


「そうです。馬鹿でしょう?でも――復讐したかったのも本当。
愛されたくて、愛されたくて、もう一度抱きしめて欲しくて、
手に入らないから――お母様の判断で、壊して貰おうと思ったの。
お母様の周りに居る餓鬼の様な人間も。そして邪魔な私も。」

遥さんは志津子さんを見た。

「お母様、不出来な娘で御免なさいね。」
黙って母親は何度も首を振った。言葉が出ないのか口が開いたままだ。

「折角、毒を挙げたのに――
どうして真っ先に私を殺して下さらなかったの?」

遥さんの顔が歪み、また、着物に、畳に、舞う花弁。

「殺せる筈が無いわ。酷い母親だったけど、それでも私は――私は――」

彼女はそう云って顔を苦痛に歪ませたきり、一切の動きを止めて
虚空に魅入った。


***


可愛い子。
狂おしい程愛らしい子。

何と外は寒いのだろう。
もっと傍においで、温めてあげよう。
私の事を気遣ってくれるの?
何て良い子だ。何て貴方は賢いのだろう。
母の事等どうでも良いのだよ。

貴方さえ温かければ良いのだよ。
貴方さえ居てくれれば凍っても構わないのだよ。
貴方が一番大切な宝物なのだよ。
貴方の喜びが私の喜びなのだよ。

春が来れば小さな芽吹きを沢山見せてあげよう。
夏が来れば可愛い体が虫に刺されてしまわぬ様に
一日中傍で扇いで居てあげよう。
秋が来ても――
冬が来ても――

落ち葉の様に、散華の様に心の中の地面に沢山の想いを積み重ねて行こう。
幾度の季節もずっとこうしてこうして―――


***


彼女は言葉を止め、虚空を見た。何が見えているのだろうか、
どんな想いで其れを見ているのだろうか。

何かを、酷く重要な何かを思い出した様に彼女は娘を見て云った。まるで悲鳴の様な声だった。

「嗚呼!何と馬鹿な母親なのだろう、私は!今になってこんな!こんな!
貴方をどんなに愛していたかを思い出すなんて!ずっとこの胸に在った思いだったのに!貴方が幸せなら極寒に放り出されても幸せだと思っていたのに私はッ!

どんな苦痛も喜んでこの身に受けたいと思っていた!貴方が全てで!今も大事で――何故こんな感情を、仕舞い込んで居たのだろう!貴方は今、こんなに泣いているのに!こんなに辛い思いを溜めていたのに!私は――」

志津子さんはふらふらと頼りなく娘の下に寄ると
まるで盲目の人の様に娘の頬に、その肩に触れ、まるで慌てて侵食するかの様に
娘の体を腕の中に入れ、温める様に抱きしめた。


まるで夢遊病患者の様に――母としての本能が遅れてやって来たかの様に――
少しの体温さえも彼女に流し込みたいと云わんばかりに――その距離を埋めた。

罪が如何とか、今までが如何とか、そんな事すら思考に過ぎる余裕が無い程に彼女は我が子を貪欲に温めた。

目を見開き、立ち尽くしていた娘は赤子がそうする様にその遅れて到達した母の温もりにそっと目を閉じた。

その瞼には苦悶とそして彼女からは初めて感じる大きな戸惑いとほんの少し安堵が見えた。

「有難う。罰してくれて有難う。愚かな母で御免なさいね。苦しかったでしょう、悲しかったでしょう――」

母親は娘の背を何度も何度も撫ぜた。


それは何年も、何年も止まっていた時間と感情が流れ出した瞬間だった。
初めてこの家に温度が宿った、そんな気がしていた。

「あの時、矢張り儂が――まるで実の父親の様に
大事に接して貰いながら儂は――」
老人はそれで無くとも腰が曲がり小さく見える体を
更に折り曲げてそう嘆いた。

皺に埋もれた皺の様な頼りない目が真っ赤になっていた。

外では警察が何やら白い布に包んだ大きな物を玄関に運んでいた。
恐らくは臼田重雄の遺体であろう。

さわさわと風の音がする。木々がざわめく。

樋口と日下部は志津子さんと産婆さんを連れて署に戻ってしまった。
勿論、白い布に包まれた臼田も一緒に行った。
私達も荷物を纏めて帰ろうと玄関に出ると遥さんと須藤さんは玄関まで見送ってくれた。

「お世話になりました。」
私達三人はこの家に残る二人に頭を下げた。

「本当に、有難う御座いました。」
遥さんは深々と頭を下げた。まだ腫れぼったい目が痛々しい。

「では――」
「――桂子!」

遥さんは私達を追いかける様に玄関から足を下ろしていた。
その足はそれ以上動かない。

「――あ――の――」
彼女の口から言葉が出ない。
想いが如何にも形にならない事を歯痒く感じているのが
ありありと分かる表情だった。

「また、いらして下さい。」
言葉を発したのは須藤さんだった。

「お嬢様はきっと悔やんでるんじゃろう、桂子ちゃんを利用してしまった事を。
悪い事だと思う。傷ついたじゃろう。でも――」

「又――来ますね。」
蒼井さんは場違いな程明るい声でそう云った。

「遥は私が思ってたよりも賢い子だったんだね。見直しちゃった。
でも私を欺いたのは許せないッ!絶対に許さないッッ!」
遥さんは蒼井さんの急に尖った声の力にびくりと体を硬直させ、目を瞑った。

「――今度の賞取ったら盛大に個展をやらないといけないの。
せいぜい手伝って貰うからね!こき使ってやる!」
遥さんの目が見開かれる、蒼井さんは怒った顔をして彼女の額に拳を
ゆっくり付けて――後、屈託の無い笑顔で笑った。

「お昼ごはん位は食べさせてあげる。その時は須藤さんも!」
そう云って須藤さんを指差すと
「儂も年じゃから――お手柔らかに願いたいもんじゃ。」
と非常に困った様な嬉しい様な顔を作って笑った。

少しずつ氷解していく空気に胸を撫で下ろしながら
私はこの玄関の主たるあの衝立を見た。

その主たる風貌の其れは相も変わらず凍り付いた美しさでもって
この広い玄関でその存在を誇っていた。

ちらちらと変わる白蝶貝の花弁の色彩。
決して地面に落ち、積もる事の無いその冷たい様は
まるで来たばかりのこの屋敷の内部さえも、まるで鏡の様に
正確に表現していた様に思えた。

蓄積する事の無い想い、接触し合う事の無い言葉。
時が止まったまま進まずに危うくなる均衡。

美しいが、温度の無い世界。

来た時にはそんなにも思わなかったが
温度を取り戻したこの屋敷でこの衝立の美しさは酷く冷たく凍てついて見えた。

この温度差をこのままでどうか――
もう二度と、この屋敷の面々が凍てつく事が無い様に――

ふと須藤さんと遥さんを見る。
遥さんに嘗て其処に立っていた凛とした母親の面影を見る。

自覚は無いのだろうが、とてもよく似た親子だった。
ただ、出会った時の彼女より胸を張り、蒼井さんにからかわれ、
笑う今の彼女の方が比べ様が無い程、美しかった。

衝立にも負けない程、美しく、柔らかく、
そして何より彼女の笑顔は温かかった。


「――授?――教授?もう行きましょうか。」
「あ?――ああ、ごめんごめん。」


野々村に促され、私と蒼井さんは屋敷に別れを告げた。
振り返ると遥さんが野々村の背に何か云いたげに口を開いて、諦める様に閉めたのが見えた。

【続く】
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