幻想ノ櫻

 



【拾話】


如何していつも僕はこうなんだ。
大切な事はいつも失ってから気が付く馬鹿なんだ。
彼女こそが僕の全てをかけて守るべき人だと長年思っていた――
二兎追うものは一兎も得ずと母も昔云っていた。

だから僕は全てを投げ出したのに。

「帰ったのか、遅かった――れ。そう―ら私は撮影に行かなきゃ。
綺麗に綺麗に撮ってもらうんだぁ―」

呂律の回らない舌をだらりとだらしなく出して
在りもせぬ予定に喜んでいる。

彼女はまるで液体の様に力なく茶卓に突っ伏し、
顔だけをこちらに向けた。その瞳に光は無い。

注射器は転がり、茶碗は壁際の畳の上に落ちて割れていた。
僕がここを離れている間、自分で食事も作らなかったし食べなかったのか。

「早く衣装を――此処に――監督は誰ぇ?」

まるで蛇の様に蠢き、立ち上がろうとするも手に力が入らないのか
そのまま茶卓へ突っ込んだ。

床に転がり仰向けになって唸る。
立ち上がる力も無いのか少しばかり身を捩じらせたまま天井を
気だるそうに見ていた。

障子から差し込む淡い光が彼女を照らす。
電気も付いていないこの部屋で彼女はまるで陶器人形の様に浮かび上がる。
糸の切れた操り人形の様に足も手も操縦を放棄され乱暴に投げ出されている。

こんなになっても彼女は矢張り美しい。だらしない下着姿すら退廃的な美を伴った。そもそも彼女には酷く堕落≠ェ似合っていた。美しく失墜する姿が酷く醜悪に艶かしく感じれる人だった。

一時は清楚な事で有名な女優であった彼女も年を重ねて今や五十手前だった。それでも猶、年を感じさせぬ程その線は美しく曲線を奏でる。あの時とちっとも変わっていない。

彼女と逢ったのは今から二十年前、彼女達が絶世期を終え、人気に翳りが差してきた時――彼女は二十八歳。僕が二十五歳の時だった。あの時から何も変わらない。

その時から僕はずっと捕われの身だ。

「ねぇお金は――?お給料は――もう出たんじゃないの?」
「もうお給料も何も――端役しか来ないじゃないか――」
「何寝ぼけているの――昨日だって映画の主演、撮影した――じゃない」
「それは――」

何年も昔の話だよ、と云う言葉を飲み込んだ。完全に記憶が混濁している。
彼女の脳にもう人間らしい能力は無いらしい。

「もう後一回分しか――電話して――早く――死んでしまうわ、私」

そう云って床に落ちていた注射器とアンプルを手探りで探し当てると
目の前に出して繁々見た。

安心した様な、苦悶に満ちた様な表情がふっと浮かび、消える。
ゆっくりと自らの半身を起こすと首をぐらりと揺らしながら
手馴れた手付きで用意をし始めた。

「もう――止めてくれよ。頼むよ。これで金ももう入って来ない。
俺にも君にも何も無い――」

彼女は僕のそんな吐露も最早聞こえはしないのか、
ほうっと甘い溜息をつくと腕にゴムを巻き、注射器を刺そうとした。

「それで最後だよ。このお金は病院に行くお金だと
君が云ったんじゃないか!」
「病院?――あはは。本気にしたの?」

彼女は笑った。

「君は泣いたじゃないか!この地獄から抜けたいと云ったじゃないか!」

今度は大きな声で笑った。

空気が振動する。僕の心臓は飛び跳ねた。
不意に沈黙が訪れる。僕はそれでもその沈黙の後に
自分の都合の良い夢を期待した。

きっと今は切れたからこんな反応であって、きっと彼女の本心は――
僕の心に添っていると。

注射針を持った彼女の手首を掴む。

「これも打たないで。もう終わりだと云った。あれは君の本心だろう?
君は僕と未来を生きるんだろう?」

彼女は何も云わずに僕の手を乱暴に振り払った。そしてまた笑った。
もう一度彼女の手首を掴む。彼女は先程より強い力で振りほどく。

感情が沸々と泡立って行くのを感じた。頭に血が上って――
今まで一度たりとも逆らった事の無い彼女に初めて手を上げた。
青白いその頬が染まる。その様子が僕の心を責め立てた。

「ごめん。でもこのままではもう――」
「誤解しないで頂戴ね!云う事を聞くから傍に置いてやっただけよ!」

彼女は注射器を持たない方の手で僕の顔を殴った。

「愛していると云ったじゃないか!傍に居て欲しいと云ったじゃないか!」
「金を持ってきなさいよ!そしたら――幾らでも愛してあげるわよ」
「もう金は無いんだよ!僕にはもう何も無いんだって――」

彼女はとっさに僕の背広の胸に手を突っ込んで入っている札束を取った。

「じゃあ用は無いわ。出て行って」
「そう云う訳には行かないよ!君の為に何もかも潰して――」
「そんなの貴方の勝手でしょう?――私はこれだけあれば――」

嘘だ。嘘だ。嘘だ。

「もう戯言は良い!それは打つな!もう地獄を終わらせよう!」
「五月蝿いわね!早く――出て行って!」

彼女は再び投与しようと試みる。僕はその手からモノを奪う。
転がる様に揉み合って――感情も体液もざぶざぶと混ざる様に転がって――

気が付いたら僕の手は彼女の首を絞めていた。

うっ血して赤く染まる彼女の顔、どんどん青くなる。
憤り、苦しさ、恐怖、そして諦め、色んな表情が浮かんでは消える。
にゅうと彼女の舌が出てくる。美しかった彼女が異形の生物の様に
醜く皺を寄せた。

その時僕は――頭の芯がぞくぞくと擽られる様な快感を感じた。

彼女の命が費えて筋肉が弛緩したのか色んな体液が出てきて異臭がした。
僕は喪失感を感じるより、罪の意識よりも彼女の体を汚物が汚すのが
酷く苦痛だった。

部屋を掃除しないとな――

興奮で朦朧とした意識の片隅でそんな事を思った。

だから僕は彼女の首や手に操り人形らしく紐を掛け壁に吊るし、
掃除をしながら彼女のその様にじっと見惚れていた。


―――本当に彼女はこの上なく醜悪で美しい。

黙っているから余計に艶かしく美しい。
もっと早くこうすれば全てを失わなくて良かったのに。
彼女の美しさをその所作で損ねずに済んでいたのに。


―――燃やさずに済んだのに。


本当に僕は馬鹿だなぁ。




***




「――たく、気持ちが悪いな。何たって今日日の人間は複雑に誤魔化す様になってるんだ!」

如何にもやり切れないな、と煙草を指先で弄びながら樋口は煙と共に言葉を吐き捨てた。

「でも岡田は自白してるんでしょう?」
「その自白も当てにはならねぇな。云っている事が何もかも曖昧だ。捨てられそうになったからと云って
殺す割には相手の事をよく知らなかったり、そもそも彼女には交際相手がいたと云う証言が出てる。」

「意外に純ですね、樋口さん」
「そうじゃない!全ての女が決まった相手に操を立てる訳じゃない事位は分かってる!しかしな――」

「彼女は女優ですよ。色恋以外に売り出して貰う為の見返り――と云う事も考えられるでしょう?」
「尚更殺してちまったらお仕舞いじゃないか」
「いや、その二つの感情が絡まって――とかなら考えられなくも無いですが。元々女優なんかは自らに自信が在るから女優なのでしょう?自分以外に目がいくのが死ぬ程嫌だったとか、誰かに自分のモノを取られるぐらいなら壊してしまえ――と。」

「お前ぇは警察辞めて小説でも書け!せいぜいカストリ止まりだろうがな!」

「そうですかねぇ、想像豊かじゃないと見えるものも見えんですよ。どうです?今度ご一緒に映画でも――視野が広がりますよ?」
「――今、何やってる?」
「君の名は、です。」
「岸惠子の出てるやつか。惚れた腫れたの世界は苦手でね。如何にも虫唾が走って仕方がねぇ。あんなのに心酔する気が知れねぇな。」
「面白いのになぁ。」

「まああの映画がやってる内は銭湯が空いてて良いがな。誰も居やしねぇ。下手すりゃ番台も居ない日があらぁ」
「空前絶後の人気ですからね。もう今回逢うか、今回逢うかと気が気で無いんです。」
「平和なこったな。」

面白いのになぁ、と詰まらなそうにぼやく日下部を見ながら俺は笑って煙を吐き出す。少し前ならそんな物だってじっくり見られる余裕など無かったのだ。創れる余裕も無かったし、何より物も無かった。だからその平和なぼやきが妙に可笑しかった。

鳴り響くサイレン、あちこちで上がる火柱、土煙、無機質に転がる人≠セったもの。戦争に行っては人を殺し、国に帰っては死を嘆き、一体俺は何をやってる生物なのかと笑うしか無かった時が在った。それから十年。

十年しか経って無いのにまるで何事も無かったかの様に時代は刻一刻と人も街も想いも姿を変えた。映画が面白いとか面白く無いとか、親父にもそんな呑気な事を言わせてやりたかったな。

これは六華の云う所の
「生きているモノの傲慢で余計な感傷」なのだろうけど。

「ま、その内、な。」

そう笑うと日下部は嬉しそうに頷いた。日に焼けた肌が彼の歯をより白く感じさせていた。笑うと幼い顔がより一層幼くなる。未だに虫取り網が良く似合う、日下部はそんな男だった。

「しかし交際相手と云われている男も所在不明になって居るのでしょう?」
「聞いたが分からないの一点張りだ。自首して来ておいて――吐く気が在るのか無いのか分からんな。」
「交際相手か他の人間を庇ってる可能性は大きいですね」
「そんな所だろうな。如何せんまだ何も洗えてねぇからこれからだな。」

俺は思い切り背中を伸ばす様にして椅子の背中に凭れ掛った。
椅子はぎ、と小さい悲鳴の様な音を上げて軋んだ。

突如休憩所のドアが開き、名も知らぬ(恐らく配属時に名前は聞いたのだろうが)警官が如何にも田舎の派出所に勤務していますと云った冴えないが人の良さそうな警官を連れて入ってきた。

硬い敬礼を受ける。俺は立ち上がり敬礼で答える。硬い苦しさはまるで軍隊の様だ。しかしこうでもして縛り付けないと如何にも統率が取り難いのが実情だ。

「失礼致します。例の件でこちらの警官が話があると云う事でここに連れて参りました。」




【続く】


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