極楽鳥ノ束縛




【拾漆話】

影は疾走する。
私は特に考えも無く追いかける。

疑問を抱くべき点なんて沢山在り過ぎて何処から認識すべきか分からなかった。

思考の視点が振れる。
 

私は魑魅魍魎に満ちた様に雑多と混乱する空気を振り切るかの如く
彼の影を追い疾走する。こんな時なのに蒼井さんの呑気な声が頭をよぎった。

――毎日机の前に座ってらっしゃる先生達には重労働過ぎやしないかしら…

思いの他、的を得ている事が今、妙に恨めしい。若き頃の感覚に追いついて行かず
退化した体にはこの急激な運動に悲鳴を上げて居た。

息が切れる。意識が朦朧とする。
自分もまだ若人のつもりであったが、十年程違うだけで
こんなに体力に違いが在るかと思う程に彼の足は速かった。

足音は目の前から聞こえるのに後一歩が遠い。
途中珠城のものであろうギターの音が通り過ぎて行った。
彼は相変わらずあの場所であれをかき鳴らしていたらしい。

彼は今、何を思うのだろう。
否、それよりもまずは目の前に失踪する若人一人捕まえなくては。
凍り付く様な寒さの中、河に入っていた彼の事だ。変死でもしかねない。

風が、妙に冷たく肌を撫ぜる。
それが私の体温も気力も奪って行く様な気がしてぞっとした。
あとニ尺ほど先に影の背が見えた。
時々伸ばした指先に彼の開襟シャツが掠る。

長く走れば走る程にこの勝負は私にとって不利になる。
彼はまだ若く、私は自分で思うよりも退化している。ならば――!

残り僅かな気力と力を振り絞り地を蹴った。
規則的になっていた足音が乱れた事を警戒したのだろう
彼は不意に振り向いた。その見開いた瞳の端が街灯に照らされ橙色に光る。

造りが綺麗ならこんなに酷い顔をしていても綺麗なのだな――
などと一瞬だけ思った。

視界が回り、肩に、背中に草と土の感触を感じた。
酷く打ちつけているのだが不思議と痛いとは思わなかった。

野々村の肩を握ったまま私達は草の上を傾斜に転がされ落ちた。
川のせせらぎが近い。これは入ってしまうと覚悟をしたが寸前で何とか止まった。

「大丈夫か!」
手を離してはまた逃げられると、私は彼を下に敷いたまま声を掛けた。
野々村は両手で顔を覆い肩を振るわせていた。泣いているのだろうか。

「怪我が無いならさっさと帰ろう」
返事は返ってこない。

「話は家で――」
「――如何して――」

胸騒ぎがした。聞いてはいけないと体のどこかで警告音が鳴った気がした。
それでもあたりは静かで、誤魔化す事も出来ず彼の言葉は走った所為か
それとも感際まったからか、妙に掠れて乾いた音をしていた。

「如何して置いて行ったんだ――如何してッ――!」
声の抑揚がいつもと少し違う。彼は以外にもしゃくり上げて泣いていた。
まるで子供の様に。

「野々――村?」
不意に胸元をつかまれ地に引き倒された。凄い力だ。

「邪魔になったの?――要らなくなったの?――誰も――れない」
いつの間手が伸びてきていたのか首を絞められ息が出来ない。
華奢な指が私の喉に食い込みドンドン締め付けていく。

息が出来ずに朦朧として――視界が真っ黒に染まった。
ずっと辛うじて見えていた彼の形も星の散らばりも草の形も全て、全て――
呑まれてしまったのだろうか、黒に。闇に。
ずっと体の何処かにその存在を感じて恐れていたのはこれが怖かったからだろうか。

顔に生暖かい雫が沢山垂れてくる。少し塩辛い。
彼がもう何を言っているのか聞き取れ――ない。

「――の所為で僕は――」
如何して彼はこんなに苦しそうな声を出すのだろうか。

「――舌を出して―――いったよ。今の――同じ様にね!」
野々村の乾いた笑い声が遠くなる。

「――んなに慕っ――」


彼の言葉が引き金になったのか、頭の中で彼に良く似た声が聞こえた。
はっきりと。


――お慕い申しております。六華さま。


黒を侵食する様に桃色が広がる。櫻――並木だ。
桃色の着物を着て髪を結った上品そうな女性がそっと振り返る。
遙香さんに良く似た――否、似てるのは髪形だけでこの女性は――


――桜の季節には私を思い出して下さい。貴方がもし――


まるで硝子を挟んだ様に記憶があともう少しと言う所で戻らない。
ただ記憶も戻らぬのに私の口は動いていた。

「桜花さん――」
絞められた首以上に苦しい痛みが胸を締め付けた。焼けるようだ。
その名が忌まわしくて――なのに狂おしい程に――

「桜花さんッ!」――貴方は、、誰だ?

不意に息が喉を通り、逆に激しい痛みと焼き切れると思う程の熱が
一瞬の内に喉周りを支配した。

思わず上に乗る彼を突き飛ばし地に跪き身を縮め咳き込んだ。
心臓が上がっていたのでは無いかと思う程、頚動脈が脈を打った。

不意に野々村が私に?みかかり、私は本能的にその両手首を?んだ。
次は本当に殺されてしまう。

「殺して下さい!後生です。僕を、彼女を殺して下さい!」
「要らぬ訳じゃない!違うんだ!」

私は私の言ってる事が分からない。
まるで何かに体を乗っ取られでもしたようだった。

「生きなさい!死んでしまっては何も解からないではないか!」
「解からぬのが幸せと言う事も在りましょう」

急に彼が取り乱すのを止め、落ち着き払った声を出したものだから
私は驚いてその手を離した。

「ね?せんせい。思い出さぬが華と言う事も在りましょう?」
彼は私に向かって責める様に身を乗り出した。私は胸の内が今だ泡だったまま、
自分自身の記憶の断片に怯えたままその言葉を返す事が出来ずに只、動けずに
彼を見返した。顔が近い。

張り詰めた空気の中、急に彼は糸が切れた傀儡の様に
空に向かい大きく笑った後、地に倒れた。
不気味な静けさが辺りを占める。

川のせせらぎだけが呑気にその存在を無意味に誇示していた。
幾ら待てども彼は立ち上がら無かった。
私は深く溜息を付き彼を背に背負って帰路につきながら考えていた。

私が桜花と呼んだ女性は野々村以外に何者にも見えなかった。
記憶の底に野々村が居る、つまり嘗て出会った事が在るとしたら――
何故彼は年を取らないのだろうか。

記憶の混同。野々村に似た誰かの姿と新しく出会った野々村の姿を
私の脳が一緒の物として諒解し、混同してしまった可能性は大いにある。
彼が年を取らずに生きて居るとするよりはよっぽどそっちの方が現実的なのだが
如何にも彼の存在の妖しさが私に曲解をさせる様だった。

神か――悪魔か――何て馬鹿馬鹿しい。
人間誰しもが悪魔にも神にもなる可能性を孕んでいるじゃないか。

ふと脳裏に過ぎる先ほどの彼の子供の様な泣き声。
悲痛な叫び。

私が――彼にとって悪魔なのだろうか。

覚えの無い事なのに酷く心が痛んだ。
覚えが無い事が無い事が殊更心を痛ませた。

戦時中は誰かの正義が誰かの悲劇だった。
生きると死ぬとが常に背中合わせに存在していた。

殺さなければ殺される。
目の前に人間を見捨てなければ遠く離れた誰かを見捨てる事になる。

生きると云うのは決して奇麗事では成り立たない。
だからこそ決して忘るるべきでは無い。それが犠牲に対する礼儀だと私は思う。

私は今を生きる為に奥深く仕舞いこんだ記憶の中に
どんな犠牲を封じ込めたのだろう。

――思い出さぬが華と言う事も在りましょう?

思い出さぬでも事在るごとにささくれが引っ掛かってしょうが無いなら
思い出さずには居られないでは無いか。

そう憤りながらも私は何処かで彼のその言葉に従いたい気持も在った。
どうせ手立てが見つからないのに知る事実は結局知らないのも同然だ。
何も動かない。知っているだけ心の負担が重くなるだけじゃないか。

それでも私は思い出したいと思うのだ。過去の事だと割り切れずに居るのだ。
欠けた記憶の中にいる何かが決して忘れるなと繰り返すのだから。

あの少女――遙香さんにも野々村にも似た今時珍しい澄んだ風貌の大和撫子。

何故こんな身近に似た人間が二人、記憶の中を含めれば三人。
そして遙香の父を含めれば四人。

その奇妙な偶然が酷く不吉な事の前兆の様に思えて仕方なかった。



【続く】



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