極楽鳥ノ束縛




【拾陸話】

最早黒に浮かぶ更なる影となった珠城は何も云わず
背を向ける彼女を追う様に立ち上がり…追わずに
ただ少し小さくなり行くその姿を見送った。
  私達は草を掻き分けながら見失わぬ様に彼女の後を追いかける。

背後から息を吸う僅かな息が草のすれる音の中に僅かに聞こえたが
それに言葉が続く事は無かった。

「蒼井さん、待って下さい」
彼女は声を掛けても振り向かず歩き続けた。
返事も返って来ない。

真っ暗な中にチラリと見えるは家屋と街灯が点々と標す僅かな光。
それらだけを残して土手の周辺はもう闇の海に囲まれたが如くだった。

点在する街灯だけが偶に彼女の姿を映し、その存在が確認できる。
いつもなら優雅に歩く彼女だが目の前の影の歩みは珍しく早かった。

「我々を撒くつもりですか?」
彼女の足音が不意に止まる。彼女の息も大分乱れているようだ。

「如何したんです?何か不愉快な事でも…」
「すいません…私…」

様子がおかしかった。彼女の声は何処か不安定な調子で
そこから…まるで空をつかむ様な言葉のやり取りを繰り返していた。

「如何したんですか…」
「如何したのかしら…」
「何か不愉快な事でも…」
「不愉快…なのかしら…」

まるで寝呆けているかの様な言葉に彼女のいつもの聡明さが
見当たらなかった。

私は彼女から言葉を引き出す事を諦めて野々村の顔を見た。
街灯に照らされた彼の髪は酷く色が薄くてまるで亡霊か何かの様だった。
彼の表情は硬く眉間に皺すら寄せて黙って歩いていた。

質問して返答が帰ってくる雰囲気ではなかった。
一体二人ともに何が在ったのか分からず、何も解せぬまま
再び歩き始める二人に私は只、黙って歩を進めるしか無かった。

何処からが地面で何処からが空なのか分かりかねる程の闇の中を
三つの足跡が不規則に足元の砂を鳴らしていた。

ざっざ、煌々、ざっざ、煌々

景色は心次第で変わって見える。
今はただ、妙な心の痞えの所為かあれ程綺麗に見えていた星の輝きが
只の無機質な砂粒にしか見え無かった。

彼女に着いて土手を下りた時に初めて土手の上の空気はまだ新鮮で在った事を感じた。
漆黒の闇はまるで埃を練りこんだ粘液の様に淀み、温度を持っていた。

ぬらりと身に纏わり付く様な湿気を感じ思わず首を振った。

「もう少しで…」
彼女の声には今だ収まりきらぬ動揺が含まれていた。
芯が感じられない。まるで心ここに在らず、だ。

あちこちの家から子供を叱咤する声、笑い声が聞こえてくる。
土手の静寂で少なからず神経が緊張をしていたのか
其処でやっと体の中で何かが解れた様な感覚が在った。

「人の気配は平穏な時は煩わしいのに…不安になると嬉しく感じるものですわね」
彼女の言葉にいつもなら揚げ足を取りからかう野々村は珍しく反応をしない。

「何か…不安なのですか?」問うても答えなど返ってくる気などしなかったが
何も返答しないのも妙な話で、他に良い言葉が見つからないのでそう問うしかなかった。

「ざわざわと…」
彼女は言葉を切ったまま再び黙り込んだ。

連立している家々の明かりでチラチラと見えては見失う二人の表情は
決して明るいものでは無かった。

「ざわざわと…?」
「此処が――家です」

立ち止まり、金属音をさせて開いた小さな門を潜り
彼女は玄関に鍵を刺した。

「家にお入りになって異常が無い事を確認したら私達は帰るよ」
「お茶くらいお出しさせて下さい」
「こんな夜分遅くに一人暮らしの…しかも嫁入り前女性の家に入り込んで
何か変な噂が立ってはいけないからそれは遠慮しておきます」

私がそう言って笑うと彼女は少し考えた後…

「女性――私は、、女性だったのですね」
普段なら笑うべき言葉だったのかも知れない。
自分の性別を忘れるなんて事、冗談としか思えない。

しかしながら彼女の顔は酷く思いつめた様な顔だったから
私は黙って頷く他に何も言えなかった。

靴を脱ぎ家屋の中に入りあちこち見て回ると
「大丈夫――そうです」と彼女が浮かない顔で言ったのを確認して
私達はしっかり戸締りする事だけ念を押して家路に着いた。

野々村は依然として不愉快そうに顔を歪めている。

「一体、君達の身に何が在ったのだ」
そう問うと自分には何も異常が無いとでも思ってたのか
彼は首を傾げ――

「初恋は実らない物だと聞きますが――」
大丈夫ですかね、蒼井さん…と微笑んだ。

ああ、そうだったのか――ならこんなに楽しい事は無いじゃないか。
蒼井には春が来るし、この横に居る鉄面皮は嫉妬でその顔を崩す、何て。

「嫉妬か?――らしくない」
「え?」
「君がずっと不機嫌な訳は彼女の恋の始まりを――」

「いえ――」
野々村が笑ったのが通り過ぎる民家から漏れる光で分かった。
妙に疲れた様な表情だったのが引っ掛かる。

「勿論蒼井さんは素敵な方ですから――急に現れた見知らぬ男が馴れ馴れしく
彼女に接するのが愉快とは言い難いですが――それとはまったく別方向に
好きとか嫌いとか…纏わり付く様な人の感情を酷く疎ましく感じるのです
こう…足元からずず、と手が伸びてきて体に纏わりつき、土中に引き込まれる様な不快感が……
もっと根の深い所への拒否反応の様なものが如何やら僕には在る様で――」

野々村はその華奢な体を更に小さくさせて土手に足を乗せた。
私も同じく雑草の蔓延る柔かい土に足を沈ませ踏みしめた。
体の重みで少しばかり足が土に沈み、それが足に纏わり付いた。

空は相変わらず塵の様な輝きが揺らぎ私達を迎えた。
真っ黒な土手を登りきれば上は一面の塵空だ。

風が強い。野々村の影が掻き消えそうに乱れる。
猫毛気味の彼の髪は風に乱れやすいのだろう。
影はまるで異形のモノの様な形をしていた。

私は自分が何故そんな事を言ったのだろう。
日頃自分が魘されている夢を、その恐怖を誰かと共有したかったのだろうか。
積み重なる想いの重荷に耐えかねて冗談交じりに声にしたかったのかも知れない。

「――ろさないで――れ――ないで――」
夢に見る女の声色を思い出し、裏声で模倣をした。

「洋書に出てくる夢魔の様なものが毎晩毎晩繰り返し――」
野々村は別段反応が無く歩き続ける。

「何かを訴える様に夢枕に立ちでもするのか?」

――別に彼が自分の身に同じ事が起こっていると本気で思った訳では無い。
只「まさかそんな馬鹿な話無いですよ」と彼に笑って欲しかった。

街灯の灯の下で野々村は立ち止まる。
私は彼が笑うのを笑顔を作って追いついた。

野々村は俯いていた。私は如何も期待とは違う流れになっている事を
肌で感じていた。

「殺して――、忘れないで――です。」
彼はゆっくり上げた顔を更にゆっくりとこちらに向けた。

ぎり、と音が聞こえる。その音が彼が歯を食いしばった音だと気が付くのは
その一瞬後――

顔を歪ませた彼の目の淵が街灯に照らされ輝いた、雫が頬を伝う。
――そんな残像を残して急に彼が走り出してからだった。


【続く】

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