極楽鳥ノ束縛




【拾伍話】

***


始めは何処か不自然だった蒼井さんと珠城敬治の会話も
徐々に打ち解けて来た様で他愛も無い互いの作品の評価や解釈の議論から始まり、
思考回路のの模索に続き…少しずつ、自分達の身の上話に移行し始めていた。

年が近いのと、芸術と云う名の下に集う同志であると云う気さくさからか
二人はとても気が合うようだった。 時折、珠城が挟む甘い言葉を含む二人の会話を聞きながら
男二人で寝そべって見る夜空は非常に尻の座りは悪い空間だったが
以前の事件で蒼井が受けた傷と、今また恐ろしい事件が身の回りで起きた事を思うと
少しばかり心が救われる気にもなった。

いつの間にか目の前に広がる空は最後の紅を飲み干していた。

こうして寝そべり空と真正面に向き合っていると均衡が麻痺をして
背にしている方とどちらが上なのか分からなくなり、理屈では只の錯覚とは
分かっていても本能が納得をしてくれずに落ちまいと草を握り締めていた。

紅をすっかり飲み込んだ引力を感じさせる透き通った迫力のある濃紺が
次はゆるりと漆黒に飲み込まれようとしていた。

燦燦と星が瞬く透き通った黒だ。

風が土手を撫ぜ、さらさらと草を鳴らして去って行く。

珠城の低くも無く、高くも無く、棘の無い柔らかな声は夜空に酷く馴染んだ。
余り耳を澄ませては悪いと思いながらも耳に心地良く入って行く事に
酷く罪悪感を覚えながらも彼の語りに耳を傾けていた。


「…私は拾って頂いたのです。貧乏百姓の三男なんて只の足手まといですから
いずれは出てゆかねば成らぬ身だったの僕にはあの人が神様か仏様に思えたものですよ。
実際その様な方ですが、僕はずっと爪に火を灯す様な…貧困に喘ぐ様な生活にうんざりしていて
…良家のお嬢さんで在る蒼井さんにはお分かり頂けないかも知れませんね。

いえいえ、分からぬ方が良いのです。僕は生活の何の足しにもならぬ芸術の世界に
酷く憧れていました。現実逃避も良い所です。しかし、その幼稚な憧れが今、僕を
此処に連れてきているのです。こうして貴方とも逢える幸福を得る事が出来ました」

蒼井は相槌変わりに困惑した風な呼吸で優しく笑った。

「中尾先生との出会いは衝撃的でした、僕は今みたいに…こう土手に座って絵を描いていたのです。
あの時は楽器など買えるお金も無かったから鼻歌を歌いながらね。そうしたら後ろでがさりと音がするものだから
てっきり猪か何かと思って地に落ちていた大きな石を持ち上げてこう…」

「まあ、驚いた!好戦的でいらっしゃるのね、そうは見えないわ」
「田舎では獣との攻防が激しいので神経が研ぎ澄まされているんでしょうね、
こちらに来てからはそんなに機敏な動きをする事が無くなりました」
「でもさっきはとっさにギターを投げ捨てて私を受け取って下さったじゃない」
「猪かと思ったのかも知れません」

「まあ!さっきは女神とまでおっしゃったのに!」
「あはは!すぐに猪の様に勢いの在る女神と諒解したのです。
猪がこんなに美しい姿をしている筈が無い」

照れたのか、不愉快に思ったのかは判らないが蒼井は少し妙な間を空けた。

「…あの…で、結局、中尾先生をぽかりと…?」
「まさか!その前に気が付きました。僕は彼に驚いて石を持ち上げたまま
硬直してしまって…驚いた事に先生は僕にも石にも興味が無かったらしく、一瞥もせずに
食い入る様に地面に置いた僕のスケッチブックだけを食い入る様に見ていたんだ。
今しがた自分を石で打とうといった姿勢の男を目の前にですよ!?」

「鈍い方なのかしら…」
「一緒に住んで如何言う事か初めて判りました。あの人は本当に絵にしか興味が無い
表現馬鹿と言うか、中尾光造と言う名の芸術なんだ。人じゃぁ無いんだよ!…いや…」
「…え?」

「言い過ぎたね。食にも興味があった。料理はとても上手いんです。あれもあの人の
表現とすると矢張り表現馬鹿としか言い様が無いですが…」
「いやだ!珠城さんたら!ご自分の師匠になんて事を!」
蒼井は今まで堪えていたのか突発的に腹を抱えて笑い出した。

「いや、尊敬はしています!崇拝を!でも本当に…こう…」

またもや取り繕うつもりで言葉を捜しても何も出なかったのか
珠城は暫くぼそぼそと呟いていたが諦めたのか腹を抱えて笑い出した。

二人は大きな声で笑った。
漆黒の中で煌いている星もその拍子に合わせる様に瞬いていた。

「余り大きな声でこんな事言っていると駄目ですね。
何時先生が此処を通られるか分かったもんじゃない」
「先生もこの土手をよくお通りになるの?」

「先生もそうだし、深江さんも通る。彼にこんな言葉を聞かれたら…僕はじりじりと
苛められてしまいそうだ。心から先生を崇拝してるからね。何時だって先生の一字一句、
絵の構図、色彩、先生の事なら何だって記録するんだ。最早病気の域だね。
その甲斐あってか彼の書く作品は完璧な模写と言うか…先生の世界に捕われてしまっているんだよ」

「私はあの人の作品は拝見した事が無くて――」
「見る価値は十二分に在るよ。李藤さんなんかは彼を第二の中尾光造だなんて言って彼を一番評価してる。
確かに素晴らしい世界を紡ぐ人だと思うよ。一度見せて貰うと良い」
「あの背中を曲げた…その…」

「九条さんかな?――あの人も凄いんだ。日頃人と余り付き合わない方なんだけど
あの人の目に世界が如何見えているのか僕は聞きたいのだけど――声を掛ける度に逃げられてしまう。
ついさっきだって逃げられたんです。あの人はまるで万華鏡の中に入った様な絵を書く。
それもとても極彩色でね」僕以外、皆本当に凄いんだ。君だって、本当に凄い世界を紡いでいた――

珠城はそう言って大きな溜息を付いた。

「貴方だって――」
「蒼井さんは――人の絵を見て素晴らしいと思うと腹が立ったりしますか?」

酷く思いつめた様な声だった。
蒼井は今の今まで軽く、如才の無い会話をしていた彼が急に心に侵入する様な、
縋りつく様な言葉の重さを感じたのか、暫く言葉を失っていたが流石に機転の利く彼女であった。

「立ちます。才能に嫉妬しますわ。自分が酷く矮小に思えたり悲しくなったりしますわ。
人の個性は様々とは言え、矢張り優れた才を見る居た堪れなくなる時が在ります」

蒼井の声もまた彼の声と同じ様に真の心を話す重い声になっていた。
彼の言葉を真っ当に受けたのだ。

「僕は――」
彼はそんな彼女の言葉に、心を吐露する覚悟が出来たのか――
今までが余程張り詰めていたのか酷く弱弱しい、小さな断末魔の様な声で話し始めた。

「僕は――思えないのです。素直に凄いと思う。得たい等と思えない。
僕は――この世界で生計を立てては居ますがこの世界に相応しい人間では無いのです――」

「ではどうして――」
「僕は絵で獲た収入を田舎の両親に送っているのです。
家族は僕の収入なしには生計が立てられません。生活水準と云うのは一度上がってしまえば下げる事は至難の業です。僕一人の生活ならそれでも構わないと思えたかも知れませんが初めて送金した時の両親の声が僕は忘れられないのです。

それに僕だって、中尾先生の下、何不自由無い生活を送ってますが…
失うのは怖いですからね。貧乏と云うのは容易に人の心を蝕むものなので…」

二人共言葉を失い黙り込んだ。
風が草を撫ぜる音と川のせせらぎだけが時間の流れを表していた。

春だと言うのに日差しが強かった日中の所為で温まっていた空気が
急激に冷えて云った様に感じたのは強ち風の所為ばかりでは無かった。

心が重たく沈む。

「すいません、こんな事、誰にも言えなくて――甘えてしまいました」
「いえ――」

風が二人からも温度を奪って行った様に感じた。
空はもう…真っ暗で星が申し訳無さそうに相も変わらず瞬いていた。

「絵を書くのがお辛いですか?」

蒼井の声が温かく響いた。

「周りが皆、向上心の高い人間ばかりなので…そのままで満足をしてしまう自分に
苦痛を感じるだけで嫌いでは無いのです。でも…」
――ギターの方が…楽しいかな?と彼は笑ったが今だ心の重みを抱えた様な硬い笑い声だった。

「ギターでは生計、立てられませんか?とてもお上手でした」
「いつもならこの時間はジャズ喫茶で働かせて頂いてるのですが…
稼げて僕一人の生活費が関の山です。矢張り絵で無いと…」

「夜は歌って…昼間は絵を描いて…新作がお出になるのが
とても早い方とお伺いしました。ちゃんと寝てらっしゃるの?」
「余り寝る事が出来ないのです。休んで居る事に酷く罪悪感が在って…
まあ、僕はまだ若いので…どんどん年と共に体が付いて来なくなるとは
思いますけどね」

話を聞いて貰い少し楽になったのか彼はここでやっと和らいだ声で笑った。
蒼井は笑わずに何か考えていた。

「すいません。道づれに貴方の心を重くしてしまいましたね。
不思議な事に貴方と話すと僕は寛いでしまう様だ」
「きっと誰にでもそう仰ってるのよ。嫌な人」
「誰にでもこうなれたら僕はきっと生きて行きやすいのに…」

演技とは思い難い言葉の重みが在った。
蒼井はその言葉に対して何も返事をしなかった。

ただ一言「明日も自分はあの画廊に居ます」と言い、立ち上がり
私達に「お待たせしてすみません」と頭を下げた。




【続く】


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